クラシカルな雰囲気を味わえる揚輝荘とは?

『揚輝荘』の旧敷地に建つ分譲マンション

揚輝荘とはどんな建物?

揚輝荘とはどんな建物?

歴史と文化を感じられるスポットとして多くの人々の目を楽しませている「揚輝荘」は名古屋でも有名な観光スポットです。四季折々の花々が楽しめると地元の人も多く訪れています。ここでは揚輝荘の歴史についてまとめていきます。

近代化の歩みを感じられる

名古屋で創業した松坂屋の初代社長である15代伊藤次郎左衛門祐民の別荘として覚王山に建設された「揚輝荘」は近代化の歩みを感じられる建物として多くの観光客が訪れています。敷地面積は約1万坪と広大で、自然の地形を活かして造られた建物が特徴的で最盛期には30数棟の建物があったのだとか。
大正から昭和の初期にかけては迎賓館や社交場として賑わいを見せていましたが、これは祐民が経営者だけでなく財界人としても活躍し、国際交流をはじめとした社会活動に積極的にとり組んでいたからです。実業家や文化人だけでなく政治家や皇族なども来荘し園遊会や茶会などを楽しんでいました。揚輝荘は単に個人の別荘ではなく、国内外の交流の場としての役割も持っていたんです。

祐民とはどのような人物だったのか?

名古屋の経済発展に貢献した祐民の気質や人柄についてもう少し詳しく見ていきましょう。
祐民は1878年、商家である伊東家の4男として生まれ、47歳の時に家督を相続して15代次郎左衛門を襲名しました。負けん気の強い性格ですが、ちゃめっ気もあり可愛らしい一面も持っていたようです。
祐民は江戸時代から続いていた「いとう呉服店」を1910年に株式会社化してデパートメントストア形式の店舗を開店しました。名古屋でははじめてのデパートメントストア形式ということで大きな注目を集めたようですね。その後は事業を拡大したり、名古屋商工会議所の会頭に就任したりと名古屋の経済発展に力を尽くしました。また、近代日本経済の父と呼ばれる実業家の渋沢栄一とも交流があり、経済人として広い人脈も持っていたんですね。
祐民は自ら設けた満55歳定年制により、1933年に松坂屋の社長職、名古屋商工会議所の会頭からは身を引き、以後は国際交流や社会活動に専念したそうです。
このように経済人としての功績が目立ちますが、祐民は幼いころから狂言や漢学、茶道や弓道などの学芸も嗜んでおり、各界の名士との交流の場として揚輝荘を活用していました。

市の有形文化財に

国際的なコミュニティが築かれていた揚輝荘はもともと敷地内に30数棟の建物がありましたが1945年の空襲で多くの建物が焼失してしまいました。また、風雨による老朽化や開発などの影響もあり建物や敷地の大半が失われてしまったんです。でも、主要な部分は残されており、2007年に市に寄付され、翌2008年には市の有形文化財に指定されました。現在では名古屋の近代化の歩みを知ることができる歴史的・文化的資産として人々の目を楽しませています。

揚輝荘の周辺エリアはなぜ人気があるの?